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第1期シリーズ「九度山篇」 あらすじ


『新釈 眞田十勇士』で描かれる時代背景

 年表中の青字はスペシャル版、緑字は第一期シリーズで製作する部分です。
1553(天文22)年   眞田幸隆、武田信玄に出仕し、三男昌幸(7才)人質として武田信玄に預けられる
(→後に武藤喜兵衛を名乗る)
1561(永禄 4)年 9月10日 川中島の戦い(第4次)喜兵衛=昌幸初陣(15才)
1566(永禄 9)年   昌幸の長男信幸(信之)生まれる
1567(永禄10)年   昌幸の次男信繁(幸村)生まれる(幼名 於弁丸)
1568(永禄11)年   信玄、甲相駿三国同盟を一方的に破棄
1569(永禄12)年 10月1日 信玄、小田原城を攻める
10月4日 三増峠の戦いで喜兵衛、一番槍の功名
1570(元亀 元)年   駿河花沢城の戦いで喜兵衛、二番槍の功名
1572(元亀 3)年 10月 信玄、上洛を開始
12月 三方ヶ原の戦い(徳川家康、武田軍に大敗)
1573(天正 元)年 4月12日 武田信玄、没(享年53才)
1574(天正 2)年 5月19日 眞田幸隆、没(享年62才)
1575(天正 3)年 5月21日 長篠の戦い 眞田信綱(39才)/昌輝(33才)戦死
武藤喜兵衛改 眞田昌幸、家督相続(29才)
1576(天正 4)年   昌幸、上州岩櫃城入手(城代に海野兄弟)
この年、初めて信玄の死が公表される
1578(天正 6)年 3月9日 上杉謙信、没(享年49才)
越後で御館の乱
上杉景勝、勝頼と甲越同盟を結ぶ
1579(天正 7)年   景勝、越後平定→沼田の北条勢、退勢
昌幸、上州沼田城を攻略
1581(天正 9)年 1月 勝頼、甲州新府城築城着手(昌幸、普請奉行に)
3月 遠州高天神城落城 武田勢、遠江より撤退
昌幸、沼田景義を謀殺(沼田城を確保)
昌幸、海野兄弟を謀殺
11月 勝頼、信玄の養子になっていた勝長を信長へ送還、完全に関係を断つ
12月 勝頼、新府城へ
1582(天正10)年 2月2日 勝頼、信長に通じた木曽義昌討伐の為、信濃に出陣これに応じた信長、甲州攻めの軍を起こす
2月14日 夜10時 東天に赤い怪光見える
2月22日 夜9時 大彗星現れて数日間輝き、安土山に落下
3月 小笠原信嶺、依田信蕃、穴山梅雪ら、次々に叛し、勝頼、小山田信茂の勧めで信茂の居城=岩殿山城へ移るべく新府城を焼き払う
3月9日 →信茂叛し、勝頼孤立する
3月11日 →勝頼、天目山で自刃(享年37才)=武田家滅亡
眞田昌幸、織田、北条双方に臣従の意を表す
→上州厩橋城に入城した滝川一益に本領を安堵さる
=信繁、人質として沼田城に留め置かれる
4月3日 織田信忠、武田の菩提寺=恵林寺を焼き討ち
快川国師、入滅「心頭滅却すれば………」
6月2日 本能寺の変
織田信長(享年49才)信忠(26才)没
→織田勢関東から撤退
7月 昌幸、北条氏直に属す
9月 昌幸、北条を離れ、徳川家康に属す
1583(天正11)年 閏正月 滝川一益、反秀吉の兵を挙げる
2月 →降伏(一益は3年後に没=享年62才)
4月20日 賤ヶ岳の戦い
(織田信孝/柴田勝家/前田利家 VS
     羽柴秀吉/織田信勝/丹羽長秀)
4月 22日 利家、降伏
4月 23日 越前北ノ庄、落城
勝家(享年62才)お市の方(37才)自刃
信孝、自刃(享年26才)
11月 石川五右衛門、刑死昌幸、家康の助力を得て上田城築城を始める
1584(天正12)年 3月 家康、秀吉との対戦に備えて北条と講和
(沼田の眞田領を北条に割譲するのが条件)
小牧の戦い
(織田信勝/家康 VS 秀吉/池田恒興/森長可)
4月 長久手の戦い 恒興(49才)/長可、戦死
11月 秀吉、信勝と単独講和→家康も講和に応ぜざるを得なくなる
1585(天正13)年 2月8日 秀吉、家康と講和
6月 上杉景勝、大坂に赴き秀吉に臣従
7月 長宗我部元親降伏し、秀吉、四国を平定
秀吉、関白職に就く(菊亭晴季の斡旋)
昌幸、家康からの沼田領を北条に明け渡せとの命を拒絶
→徳川を離れ、上杉景勝に属す
(間接的に秀吉に属すが「表裏比興の者」と評される)
8月 信繁、人質として上杉家に遣わされる
閏8月2日 上田城に徳川勢を迎え討ち、これを破る
=第1次上田合戦(神川合戦)
※眞田勢1,200+農民兵3,000Vs徳川勢8,000
11月13日 徳川家重臣・石川数正、大坂方に寝返る
→家康、上田再攻を断念
11月19日 昌幸、秀吉に臣従する
1586(天正14)年 昌幸、沼田城で北条勢を敗退させる
6月 信繁、景勝の留守中に春日山城から呼び戻され、改めて秀吉の下へ遣わされる
(景勝、抗議するも秀吉になだめられる)
10月 家康、大坂城に赴き、正式に秀吉に臣従
11月 昌幸、秀吉の命で徳川家康の寄力となる
12月 秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を受ける
1587(天正15)年 6月 キリスト教禁教令
10月 北野大茶会
1589(天正17)年 2月 信幸、家康に出仕(家康の養女/本多忠勝の娘・小松姫を娶る)
5月3日 島津義久降伏し、秀吉、九州平定昌幸、秀吉の命で沼田城を北条氏に渡す
→名胡桃城を残す
11月 名胡桃城事件起こる 北条、秀吉の手切れ
1590(天正18)年 3月 秀吉、小田原征伐へ
(昌幸、上野/武蔵を攻略)
(信繁、秀吉より部下を与えられて初陣=24才)
6月 伊達政宗、小田原参陣
7月5日 小田原落城、後北条家滅亡(北条氏直翌年没30才)
昌幸、秀吉から上田/沼田を安堵される
1591(天正19)年 8月5日 秀吉の長男、鶴松、没(3才)
12月 豊臣秀次、関白となる(秀吉、太閤に)
1592(文禄 元)年 4月 文禄の役(=第1次朝鮮出兵)
(昌幸、幸村も肥前名護屋に参陣)
1593(文禄 2)年 8月 豊臣秀頼生まれる
1594(文禄 3)年 6月 秀吉、隠居所として伏見城の拡張に着手
(昌幸、伏見城普請に用材を運ぶ)
7月 関白 豊臣秀次失脚(翌年自害 享年28才)
信繁、秀吉から豊臣姓を許され、従五位下左衛門佐に叙任
1595(文禄 4)年 4月16日 羽柴秀保、大和十津川で変死
蒲生氏郷、変死(享年40才)
8月 山城、大和、陸奥会津で大雨洪水が起こる
1596(慶長 元)年 閏7月13日 京畿に大地震
9月2日 秀吉、朝鮮への再出兵を決意
服部半蔵、没(55才)
1597(慶長 2)年 2月 慶長の役(=第2次朝鮮出兵)起こる
3月 醍醐の花見
1598(慶長 3)年 5月 主な武将を朝鮮から引き上げさせる
8月18日 豊臣秀吉、没(62才)(秀頼6才)
→朝鮮から撤兵
1599(慶長 4)年   前田利家、没(62才)
3月 石田三成、家康襲撃を計画
閏3月3日 加藤清正ら、三成襲撃計画
→三成、家康に保護を求める →三成、隠居させらる
9月 北の政所、大坂城を出る
代わって家康が大坂入城
10月 大野治長、常陸に流される
1600(慶長 5)年 6月16日 家康、会津攻めの軍を起こす
昌幸、信幸、信繁も参陣
7月21日 昌幸の下に石田三成の密書が届く
→下野犬伏で三者密談し、昌幸/信繁は西軍に、信幸は東軍に(犬伏の別れ)
7月23日 沼田城を守る小松殿、昌幸/信繁の入城を拒否
9月6日 昌幸/信繁、上田城に徳川秀忠の軍を迎え撃ち、これを撃破
(=第2次上田合戦)
※眞田勢2,000Vs徳川勢38,000
9月15日 関ヶ原の戦い 西軍敗北
大谷吉継(西軍副将/信繁の舅)戦死(享年42才)
石田三成、刑死(享年40才)
12月 上田城開城 昌幸(54才)/信繁(34才)、紀州高野山に配流
信幸改 信之、上田/沼田の所領を安堵される
1603(慶長 8)年 2月12日 徳川家康、江戸幕府を開
7月28日 千姫、秀頼に嫁ぐ
(この頃) 出雲の阿国、京で“かぶき踊り 興行
1605(慶長10)年 4月16日 徳川秀忠、二代将軍となる
家康、秀頼に上洛を促すが、淀君等がこれに 反発
服部正成、伊賀同心に背かれ失脚
1606(慶長11)年 3月 二条城で家康と秀頼、会見す
4月 柳生宗厳、没(享年80才)
1609(慶長14)年 4月5日 琉球、薩摩に降伏
1611(慶長16)年 6月4日 眞田昌幸、没(享年64才)
6月24日 加藤清正、没(享年50才)
1612(慶長17)年 4月13日 宮本武蔵と佐々木小次郎、巌流島の決闘
1613(慶長18)年 1月〜 大久保忠隣、入京してキリスト教弾圧を始める
→高山右近ら追放
4月 大久保長安、没(享年65才)  大久保長安事件
大久保忠隣、失脚(←本多正純)
6月3日 山手殿(昌幸正室)没
1614(慶長19)年 7月21日 方広寺鐘銘事件
8月20日 本多正信/金地院崇伝、釈明に来た片桐且元を詰問
8月29日 淀君の使者・大蔵卿の局、家康に歓待される
9月19日 且元、帰坂して和平を勧める
10月1日 且元、大坂退城
家康、諸大名に大坂出陣を命ず
(信之の子信吉/信政、参陣)
10月2日 秀頼、兵を募る
10月7日 信繁改 幸村、嫡男大助幸昌(信昌/幸綱)らと大坂入城
(9日に九度山を発ったとの説もある)
10月11日 家康、駿府を発つ
10月12日 大坂方、堺の武器を奪う=開戦(大坂冬の陣)
10月14日 家康、眞田大坂入城の報に震え上がる
(この頃) 大坂方軍議の席で、幸村野戦を主張するが、東軍の間諜・小幡景憲の反対に遭い篭城決定
幸村、やむなく折衷案として大坂城南側に出城(=眞田丸)を築いてこれを守備する(工期1月余)
10月20日 二条城焼き討ち計画、未発に終わる
10月22日 家康、京都二条城へ入る
11月15日 家康/秀忠、大坂へ進軍
大和木津で眞田の手の者、家康一行を待ち伏せ襲撃するが取り逃がす
11月19日 支砦の一つが蜂須賀、池田、浅野らの東軍に攻められ、陥落
11月26日 東軍・上杉景勝、佐竹義宣らの隊、今福砦を攻める
→木村重成、後藤基次らが撃退(基次被弾)
11月29日 蜂須賀らに九鬼、向井の水軍が加わり、博労 淵、野田、福島の砦を攻略
→大野治長、薄田兼相“橙武者”の汚名を被る
12月4日 東軍・前田利常、松平忠直、井伊直孝、藤堂高虎ら眞田丸を攻めて敗退→大助、初陣を飾る
12月14日 本多正純、幸村を10万石で招降→拒否
更に信濃一国で誘う→幸村、激怒(?)
12月16日 東軍の大砲が大坂城内淀君の居室の櫓に命中
西軍、常高院と東軍、阿茶の局/本多正純の間で和睦交渉が持たれる
12月19日 東西両軍の和議なる
幸村、家康本陣奇襲を献策するが却下される
12月21日 外堀の埋め立て始まる
12月22日 幸村、取り壊された眞田丸の築材を大坂城内に運び込む(単なる嫌がらせ)
12月23日 外堀の埋め立て終わる
12月27日 家康、内堀の埋め立てを指示
幸村/大助、信吉/信政の陣を訪れ、別れの酒宴幸村の旧友・原貞胤(元武田氏家臣/現越前松平家家臣)来訪し、酒宴
1615(元和 元)年 3月12日 京都所司代板倉勝重より大坂方再挙の報

4月4日

家康、再び駿府を立って京都へ
4月9日 大野治長襲わる
4月13日 大坂城内で軍議
幸村、秀頼の出陣と伏見城攻めを献策するも却下
4月27日 大野治房ら、大和郡山を襲撃
4月28日 大野治胤ら、堺を襲撃
4月29日 塙団右衛門、樫井で浅井勢と戦って戦死
5月5日 家康、秀忠、二条城を発って大坂へ進撃
夜、幸村/基次/勝永、翌朝の道明寺での合流を申し合せる
5月6日 幸村、遅参し、基次先行(基次内応の噂に反発)
八尾、若江、道明寺などで戦闘開始
後藤基次、道明寺口で伊達勢と戦って戦死(60才?)
木村重成、西郡で井伊直孝隊と戦って戦死(23才)
薄田兼相、戦死
幸村、殿をつとめ、伊達の騎馬鉄砲隊を撃退
大助、負傷
服部正成、戦死するも死体は発見されず
幸村、早朝の失態を勝永に詫び、励まされる
幸村、家臣らと最後の酒宴を持つ
5月7日 幸村、秀頼の出馬を懇請し、治長も同意する
→淀君の反対で実現せず
幸村、自らの隊が囮となって家康の旗本衆を引きつけ、迂回させた明石全登の隊に後方から家康本陣を襲わせる策を指示
明石隊の布陣が終わらぬうちに眞田与力の福島/石川らの隊が軍令違反で発砲開始=作戦破綻
幸村、大助を人質に遣わして秀頼の出馬を再請
天王寺口で本多忠友隊と毛利勝永隊が衝突
→忠友を戦死させるも、勝永隊は敗退
移動した毛利隊の隙を埋めるべく眞田隊移動
→好機とみた越前松平忠直隊15,000が攻め寄せる
幸村、敵の前線と家康本陣との間に隙ができるのを見逃さず、“魚鱗の陣” で忠直隊を押し返し、本隊が家康本陣を強襲
家康、旗本勢を前進させるが混乱の中で撃破さる
更に眞田の勢いが止まらぬのを見て後備えの尾張・徳川義利(義直)の隊15,000を前進させる
幸村、その先鋒/二陣を突破し、尾張勢退勢関東勢の危急を知った浅野長晟隊が来援
「浅野の裏切り」の流言飛び、関東勢混乱す幸村、家康本陣を襲う(3度)
→家康、2度は切腹を覚悟するも馬印を伏せて三里逃亡
(この時、堺・南宗寺で落命したとの説あり)
大野治房の隊、前田利常隊を突き破って秀忠の本陣に迫る
幸村、松平忠直の隊と戦って戦死(享年48才)
幸村戦死の報に、秀頼出陣を取り止める
大坂城天守閣炎上
5月8日 大坂落城 秀頼(享年23才)、淀君(50才)、
国松(8才)、 大野治長(?才)、
大蔵卿の局(?才)、 眞田大助(16才)、
毛利勝永(38才)ら殉死
5月11日 長宗我部盛親、捕らえられる(後に刑死 ?才)
1616(元和 2)年 4月 徳川家康、没(享年75才)